かきくけこんにちは!
今回の話題は、日本の学校教育の課題です。
現場の様子をなるべく分かりやすくお伝えしますので、
よろしくお願いします!
見方をアップデートしよう
さて。子どもが、学校で次のような様子だったら、皆さんはどう思いますか。
・授業中に児童が何人も立ち歩いている
・あちこちで数人が集まりザワザワ話している
・「分からない」「どうして」「でも」が授業で連発される
え、その教室大丈夫!?先生も、ちゃんとさせるの大変そう。
そう思いますよね。
このような教室の様子があると、一昔前は、先輩の先生から放課後によく叱られたものです。
「あなたのクラスの学習規律や、あなたの指導はどうなっているんですか」と。
しかし、私たちの日常生活にもはやスマホやタブレットが当たり前になったように、今までの教育や学校の在り方も、社会に合わせて変わっていく必要があるのではないでしょうか。
言い換えると、大人(私たち教師や保護者)の考え方をアップデートするということです。
上の例では、
・児童が何人も立ち歩く=自分と異なる意見を理解しようとして、すすんで友達の所へ行く
・あちこちで数人が集まりザワザワ話す=考えの違いや共通点を見つけたり伝えたりしている
・「分からない」「どうして」「でも」が連発=なんとかして知ろうとしたり、理由を考えようとしたり、他の考えと比べようとしたりしている
大人(教師)が「良い子」像を勝手に決めていただけで、もしかしたら、子ども本来の「学びに向かう」姿の現れだったのかもしれません。
少しだけ、教育というものの見方を変えて(広げて)みます。
すると、「実はものすごく子どもたちが活発で、生き生きと学んでいる」という姿を見ることができないでしょうか。
子どもや教育に対する見方を少しだけ変えてみよう、というのが今回の記事の主旨です。
(©いらすとや)
子どものあるべき姿とは
「教室で良い姿勢で座り、ノートを取りながら先生の話を黙って聞くのが良い子。」
これが、日本の学校の従来の子どもの姿(大人が知っているもの)であり、そして、あるべき子どもの姿だと私たちは(無意識にでも)思ってしまいがちです。
このような穿った見方から、なかなか(日本の教育が)抜け出せないのには、理由がいくつかあります。
1つは、今の社会を変える(支える)べき私たち大人が、このような教育を受けてきたこと。
この記事をご覧になりながら、思い当たる「先生」イメージがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
2つ目は、教員が疲弊し切っていること。
この状況については、別の記事でお伝えしますが、
・定額働かせ放題(残業代無し)
・コロナ対応、GIGAスクールなどの付加業務
このように学校教育を取り巻く様々な課題が指摘される中で、2022年6月現在目立った改革はなされず、現場では、いつ誰が倒れるかという、まさにチキチキレース状態です。
先生方の中には、日本教育の現状に課題意識をもっている方もけっこういます。(私の周りにも多いです!)
ですが、先生方の置かれているこの状況下では、何かを変えるパワーが(現場から)燃え広がることは難しい(時間がかかる)と考えています。
そして3つ目は、あえて切り込みますが、「学習指導要領」の存在です。
学習指導要領の壁
日本の学校(公立も私立も含み、一条校と呼ばれます)には、「学習指導要領」という、教えるべき内容を定めた決まりがあります。
例えば、
「小学1年生では、ひらがなやカタカナと、80字の漢字を習います」
「6年生の算数では、平均値や中央値といった代表値を学習し、統計的な見方・考え方を働かせて考えます」
このように細かく定められています。
そして、その学習指導要領に則って、すべての教科書が作られており、(検定を通過した教科書が)現場で使われています。それらをもとに、先生方は毎日、子どもたちと何時間も授業をしています。
学習指導要領は、学問・文化として体系化され(系統立てられ)、また日本の戦後経済成長を支えてきた素晴らしいものです。
もちろん指導要領も時代に合わせて(10年ごとに)改訂されているのですが、この「教える内容が決まっている」おかげで、日本の教育(教師)が大きく転換し切れないのではないか、と私は思うのです。
例えば、
先生、ぼくは恐竜が大好きなので、恐竜の歴史やなぜ滅んだのかをとことん授業で調べたいです!
という子がいたとします。(うちの息子です笑)
しかし、「恐竜」は残念ながら、小学校の学習指導要領には無いんですね。
(あんなに好きな子どもが多い分野なのに)
先生に、
「それは、(指導要領に無いから)お家で自分で調べてね」
とやさしく諭されて終わりです。
このように、教えるべき内容がある一方で、教えない(学習指導要領には無い、時数が設けられてない)内容がある。
そして、教える内容を(前もって)伝授する師がいるわけですから、どうしても授業の主体が教師になりがちなのです。
もちろん、やり方を工夫すれば、子どもたちに学びの意欲を持たせることはできますが、やはり全ての子どもが「主人公」というイメージにはなかなか辿り着きません。
「それは、本当に子どもが学びたいと思っていることなのですか?」
この疑問に対して、毎時間元気よく「はい!」と答えることは、今の私には自信がありません。
では、どうしたら変わっていくのでしょうか。
学級や学校ごとに、もっと自由な教育方法や内容(子ども主体の授業)がそこかしこで認められてもいいんじゃないだろうか。極端かもしれませんが、これが私の考えです。
→【後編】へ続く
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